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お茶の歴史
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こんばんは。失礼します。
2回生の山田です。
本日もよろしくお願いします。
皆さんは日本におけるお茶の歴史をご存知ですか?
長崎におけるお茶の歴史は古く、平安時代末期の頃、日本に中国の文化が伝わった遣唐使の時代に禅僧・栄西が大隆から平戸の地に禅とお茶を持ち帰ったのがはじまりで、 それらが後に本格的なお茶の栽培として、全国各地に広まったといわれています。
そこで、近代日本の製茶輸出貿易の先駆者として幕末の長崎で活躍した女性、大浦 慶(おおうら けい)さんについてお話させていただきます。慶さんは1828年、油屋町にあった長崎でも屈指の油問屋「大浦屋」に生まれました。幕末になると大量の輸入油に押されたり、1843年には大火事に見舞われたため、慶さんは油商に見切りをつけ、お茶の輸出を計画しました。まず、1853年オランダ人商人のテキストルから外国人のお茶の好みを聞き、いくつかの嬉野茶の見本をイギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ送りました。それから3年後の1856年、見本を見たイギリス人の貿易商人ウィリアム・オルトが長崎に来て、慶さんに大量の茶を注文するようになってから、茶貿易は順調に発展していきました。当初、オルトからの発注を受けた慶さんは巨額の注文に嬉野産の茶だけでは応じきれず、九州一円の茶の産地を駆け回り、アメリカへ向け輸出させ、これが日本における本格的製茶輸出貿易の先駆けとなりました。油屋町の屋敷の2階には大限重信らの部屋があったといわれ、坂本竜馬の海援隊にも援助をおしまなかったそうです。
私の実家の横の階段を登ったところに大浦慶さんのお墓があり、お参りにくる観光客もいます。近くには居宅跡の石碑などもあるので機会があったら見に来てください!
これは大浦慶さんの写真です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
明日もよろしくお願いします。
それでは失礼します。